元が同じでも、変換器が変われば結果は変わる

「元が同じでも、変換器が変われば結果は変わる」ものです。

分かりやすい例を上げると、AmazoniTunesとで全く同じ画曲を聞きくらべても、音が違うことがあります。

 

元音源から、スピーカーを通して音を鼓膜で聞くまでの間、何度も「変換」が行なわれています。

(1)現音源だけでなく、反射音もマイクロフォンは採取する

(2)マイクロフォンは空気の振動を電気信号に変換する

(3)この電気信号を「人為的に」加工する

(4)加工された電気信号を圧縮する。(圧縮方式としてmp3とかm4aがある)

(5)この信号を消費者が受信する

(6)どこかの段階でD/A変換(つまりスピーカーが扱える電気信号)する

(7)その電気信号を増幅してスピーカーに送る

(8)スピーカーから出た空気の振動を鼓膜で受け取る

 

ヒトがAmazoniTunesの音の違いを感じるのは、この過程ですでに違いがあるからでしょう。

鼓膜を震わせた音は、

(9)ヒトの感覚器官で一種の電気信号に変換する

(10)神経系で脳に送る

(11)脳の中で補正、フィルタリングが行われ、意識(実はこの「意識」の正体はいまだに不明)として感じられる

・「意識」の正体がわからないので、この分野はいまだに「科学」ではなく「文学的」に説明される

 

このように考えると、よほど注意して情報を取り扱ったとしても、「客観的認識」というのは単に「概念」でしかなく、ぼくらが「客観的認識」を得ることができる場合は極めて少ないように思います。したがって、「正しい認識」って何だろう?と思ってしまいます。

 

ここから推測すると、二人の人が同じ夕日を同じ場所から見た時、そのときに感じている「赤色」はそれぞれの人で異なっている可能性があると思います。

思考法にいたればもっと違う可能性があるのではないでしょうか。(1)ヒトは言語を使って思考する、(2)思考は過去の経験に基づく「思い込み」の影響を受ける、といったことから、全く同じ情報に基いて考えても、ヒトそれぞれ違う考えに至るかもしれません。

 

こういった呪縛から逃れるのは私の経験上容易いことではないように思います。それなのに、そのことを思っている瞬間は、なぜ、「自分が正しい」と思ってしまうのか、自分でもさっぱりわかりません。せめて思考のツールである「言語」は2系統くらいもっっていたいと、ぼくは思っています。

 

このような前提で、まず、"THE NATURE OF PERSONAL REALITY"をレビューし、その合間に、なぜ、Audibleを使った英語学習をお薦めするのか書いていきたいと思います。

 

なかなか本題に到達しませんが、ご容赦を。