Jane Roberts “THE NATURE OF PERSONAL REALITY”論考

中国伝統医学では、まず、「気」という一種のエネルギーでできた入れ物があって、その入れ物の形にしたがって、体の器官が作られると考えているようです。

「もし体の一部が傷つくと、その「気」が一種の「鞘」になって、その気の形通りに器官は再生される」と古代中国人は考えたようです。

そして、気が弱ってしまうと、もはや肉体を維持できなくなると考えていました。そして、その気は親から受け継ぐと考えたので、一人の人間というのは古代に誕生してから現代まで一貫した「個」と看做すことができると考えています。

 

一方、現代西洋医学では、生命の源として「細胞」を考えていて、この細胞自体にも一種の「自己」がある。そして、細胞が集合して、かつ分化して、一人の「人間」として「意思」を持つと考えているので、細胞がすべて死滅すると「私」はなくなる、と考えているようです。

 

セスの考え方は、幾分中国医学に近いように思います。まず、「プシュケ」というものが、地球上のあらゆるものに存在し、そのプシュケの考えてことが現実を作る」といっています。

 

セスの述べていることは難しいのですが、私にも似たような体験がありました。ただ、私の得た体験は言語化されていないので書き表すのが難しいように思いました。

 

ところが、Jane Roberts 著の “THE NATURE OF PERSONAL REALITY”は私と感じたのと同様のことを言語化することに成功しているので、この著作をもとに私の感じたことを書いてみることにします。

 

以下に書いたものは “THE NATURE OF PERSONAL REALITY”を読んで私が感じたものであり、翻訳ではありません。但し、この本の翻訳はすでに日本で出版されていますが、その文章は私が“THE NATURE OF PERSONAL REALITY”を読んで感じたものと随分異なり、かつ、難しく感じましたので、私の文章を読むことで“THE NATURE OF PERSONAL REALITY”を直接、英文で読むことの手助けになるのではないかと思います。但し、内容は私自身がかいたもので、 “THE NATURE OF PERSONAL REALITY”とは関係がありません。

 

第1章 世界の現実

この日常の世界で「経験」していると感じているのもは、自分のプシュケの中心から外に溢れ出たものだ。それを人は「経験」として受け取ることになる。表に現れた出来事や、環境、条件は、プシュケの動きを反映したものだ。プシュケの状態が変化すれば、自ずから外部に現れた環境も変化する。外見的な出来事を変えようとするなら、これほど確実なものはない。つまり、心の中で思ったことや、感じたこと、心の中で描いたことが、表の世界の現実を作り出す最初の一歩なのだ。自分の生きている世界で普遍的だと思ったことでさえ、そのことに対する心の持ちようが変えれば変化する。この世で起こるすべての事柄は、自分の心のありかたが源になっている。他人との交流で起こることでさえ、自分がそれについて、考えたり、感じたりしなければ、何の効力も起こさない。つまり、人は経験を自ら創り上げる能力を与えられていると言える。大きな目で見ても、個人的な状況から見ても、人の想いがこの世界を作り上げている。

 

想いというのは、正に電磁的な現実であり、その場に影響を与えるものだ。その想いが集合して、最終的には時間的、空間的な出来事や環境が作られる。「物体」と呼ばれているものは、感覚や考えが実体化して、私たちが「空間」とか「時間」と呼んでいるものの中に出現したものだ。ところが、本当のところ、私たちが「物体」と呼んでおるものは、想いが実体化して、私たちが「空間」とか「時間」とか呼んでいるものの中に出現したものだ。ところが実は、この「空間」とか「時間」とか呼んでいる物自体、私たちがイメージした仮想の世界だ。でも、だからこそ、心の中で考えたことが現実になる。

 

言ってみれば、この世の現実だと思っている物体や姿は、想いが作り出した3D画像のようなものだ。まず、想いが絵を描くとそれが3D画像になる。注意して起きたいのは、この#D画像の中に、絵を書いた本人もはめ込まれていることだ。しかし、何も絵を書くのは人間だけではない。地球上のすべての存在が絵を描いている。季節だって、大昔から、地球が作り出している像だ。地球自体が、山も海も固有の心を持っている。地球上の物質の一番小さな単位である原子や分子でさえ、固有の心を持っている。

 

また、本人が意識していなくても、それが何かは本当は分かっているものだ。自分が今見ている世界は自分が考え出したものだ。自分が、見て、聞いて、感じたことが、そのまま現実世界に反映される。他人が自分を観察していると感じたときも、それは外部世界の現実として自分自身が作り上げたものだ。

 

つまり、自分とは自分で作り上げた姿そのままだ。考えたことがそのまま、自分の肉体になる。太っているとか、痩せているとか、健康だとか病気だとか、これはすべて自分でイメージした結果だ。それは自分の考えたことの積み重ねであり、偶然ではなく、すべて意味があることなのだ。

だから、それを変えようと思えば変えられることなのだ。

 

細胞の一つ一つが自分の想いを作り、そしてその細胞は次々と生まれ変わって行くがその元にあるのが自分のプシュケなのだ。

人格の入れ替わり

今、ヒット中の映画、「君の名は。」では、「ある個人の人格が別の人格と入れ替わる」という設定です。

本当に人格と肉体が入れ替わり可能か否かは検証不可能だと思いますが、"THE NATURE OF PERSONAL REALITY" by Jane Roberts では、「セスという人格がジェーンのからだを窓口として語る」という設定ですから、これも一種の「入れ替わり」と言えるかもしれません。

「入れ替わり」の真偽を追求することにはボクは興味がありませんが、"THE NATURE OF PERSONAL REALITY" に語られている内容には大いに納得する部分があります。

 

この本が出版されたのは1974年で、この本の日本語版である「個人的現実の本質」が出版されたのは2012年ですから、この間、38年もたっています。著作権の問題があったのか、売れる見込みが立たなかったのかは不明ですが、いずれにしても、インターネットが普及した現在、日本の著作権法という法律が知識の伝播の障害にならないように改正されることを願っています。

さて、この本については、すでに「ゴーリッチ」さんが「人生攻略法」(http://gorich.jp/blog-entry-725.html)で、「マサ」さんが、「セス・ネットワーク・ジャパン」(http://www.sethnetworkjapan.org/work/personal)で一部が紹介されています。

原著は、「セスという人格がジェーンのからだを窓口として語る」ことをそのまま書き留めるというスタイルであるためか、重複している部分も多いので、上記の方々の翻訳を読めば概要はつかめるだろうと思いますが、それでも、やはり上記の翻訳は抽象的で難解であるような印象を受けます。

内容は、普遍的なものを扱っていると同時に、欧米文化の歴史と背景を色濃く持っていること、さらに翻訳する場合には、英語と日本語という言語の壁を通過させる必要があるため、とても難解な表現になっているように思います。

ぼくの試みがどこまでうまくいくかわかりませんが、ボク自身の体験というフィルターを通したほうが分かりやすくなるような気がします。

したがって、次回以降に書く内容は、翻訳ではありません。一種のレビューです。 一方、"THE NATURE OF PERSONAL REALITY" by Jane Roberts 自体は平易な文体で書かれていますので、日本語訳が難解だと感じた方は、是非、英語自体をお読みになることをお勧めします。

ハリウッド映画を字幕なしでは楽しめない人に。

ボク自身についていえば、ずっと長い間、ハリウッド映画を字幕なしでは理解できませんでした。現在のハリウッド映画は、全世界を市場と考えて制作されているので、セリフについては、英語圏の国では理解できる英語のはずですが。今ではだいたい理解できるようになりましたが、それでも米国国内向け放送(特に米国南部)の言葉は聞こえても意味が解らない場合が多いように思います。
先日も、仕事の関係で、米国南部の会話を理解しようと、Boseのノイズキャンセラー付きヘッドフォンをつけて数時間がんばりましたが、完全にはわかりませんでした。仕事の発注先がトランスクリプトを渡してくれたのですが、そのトランスクリプトにも載っていない言葉もありました、でもその程度は、吉本新喜劇が解らないのと同程度です。現地に住まない限り、100%理解するのは無理かもしれません。

前置きが長くなりました。題目は「どうすれば聞き取れるようになるか」でした。
過去に遡ります。ボクが大学教員をしていたころ、ある帰国子女の学生がいました。そこで、その人に、こんな風に尋ねてみました。
「英語の映画とかスピーチとか、聞き取れないんだけど、原因は何だろうか?」
答えは明確でした。

「原因は(1)まず、その単語を知らないこと。(2)仮に聞き取れない単語が知っている単語であるなら、文字と音声が一致していないこと。」

ぼくの場合、外国人との会話の場なら、相手の外国人は、ぼくの言ったことを「推測」してくれるし、こちらも聞き返せるので、結果的にたいした問題が起きていなかったのですが、スピーチや映画だと聞き返せません。そこで何とかして、相手の話していることをその場でキャッチしたいと思いました。
でも、その時、ボクの年齢は、すでに言語習得に最適な年齢をはるかに超えていました。

この不利な状況で、「文章の中での英単語(フレーズ)と音を一致させる」にはどうしたらいいかを考えました。到達した答えが"audiobook"を聞くことでした。
[方法]
(1)まず1章ごとに音声だけを聞いてどれくらい理解できたかを確認する。
(2)audiobookで音を流しながら、文を読む。
(分からない単語があっても、マークをつけつつ、全文を聞きながら読む。)
(3)不明な単語、不明な言い回しをインターネットで確認する。
(紙の辞書、特に英和辞書は役に立たないことが多いように思います。
それは実際の用例が少なすぎて、どんな状況で使われるのか見当がつかないから)
(4)文の意味を理解した上で、何度も聞き読みをする。
(5)また、耳だけで聞く。
(6)耳で聞きながら、自分でも声を出して唱和する。

これを繰り返しているうちに、ずいぶん聞き取れるようになりました。
この方法は、きっと学習者の年齢を問わず有効だと思います。

勉強するための材料として、ボクが一番お薦めしたいのが、村上春樹作品の英語版です。
理由は、
(1)翻訳物という性質上、文法的に普遍的な英語になっていると思う。
(ボクは英日の翻訳をすることがありますが、納品する日本語は、接続詞、助詞、句読点までチェックして間違いないことを確認しています。理由は、翻訳という仕事の性質上、発注先からクレームがでないように注意する必要があるからです。)
(2)翻訳された英文の中に不明な箇所があっても、日本語原文は100%正しいのだから、それを手がかりに、不明な英文を丸ごと覚えてしまえばいい。

上記の点から考えると、Amazon.comKindle版を買うと、比較的安価にAudibleのaudiobookを入手でき、しかも、読み進めるページと音声が同期してくれますので、お勧めしたいと思います。

[蛇足]
外国語を扱う仕事に応募すると、かならず、「あなたの英語力はどれにあたりますか」という項目があり、
(1)日常会話ならできる
(2)ビジネストークができる
(3)翻訳・通訳ができる
という風にランク分けされているのを目にしますが、
ボクの目から見ると、(3)が一番簡単です。なぜなら、相手の言ったことをそのまま伝えればいいからです。
(2)ビジネストークでは、売り込むためのパッションを英語で伝えるのは大変でしょう。

ボクの目から見ると一番難しいのが、(1)です。
以前、仕事の関係で弘前に行ったことがあります。
その会合で、スピーチは問題なく理解できましたが、会合のあとの歓談の場で、隣に座った看護師さんのおっしゃっていることが、ほとんど理解できませんでした。

英語については、もっと地域差があるのではないかと思います。英国、米国だけでなく、アジア各地でも、日常会話で使用されることがあり、それぞれ独特の癖があります。ボクは経験上、インドの方の話す英語がほとんど理解できませんでした。

元が同じでも、変換器が変われば結果は変わる

「元が同じでも、変換器が変われば結果は変わる」ものです。

分かりやすい例を上げると、AmazoniTunesとで全く同じ画曲を聞きくらべても、音が違うことがあります。

 

元音源から、スピーカーを通して音を鼓膜で聞くまでの間、何度も「変換」が行なわれています。

(1)現音源だけでなく、反射音もマイクロフォンは採取する

(2)マイクロフォンは空気の振動を電気信号に変換する

(3)この電気信号を「人為的に」加工する

(4)加工された電気信号を圧縮する。(圧縮方式としてmp3とかm4aがある)

(5)この信号を消費者が受信する

(6)どこかの段階でD/A変換(つまりスピーカーが扱える電気信号)する

(7)その電気信号を増幅してスピーカーに送る

(8)スピーカーから出た空気の振動を鼓膜で受け取る

 

ヒトがAmazoniTunesの音の違いを感じるのは、この過程ですでに違いがあるからでしょう。

鼓膜を震わせた音は、

(9)ヒトの感覚器官で一種の電気信号に変換する

(10)神経系で脳に送る

(11)脳の中で補正、フィルタリングが行われ、意識(実はこの「意識」の正体はいまだに不明)として感じられる

・「意識」の正体がわからないので、この分野はいまだに「科学」ではなく「文学的」に説明される

 

このように考えると、よほど注意して情報を取り扱ったとしても、「客観的認識」というのは単に「概念」でしかなく、ぼくらが「客観的認識」を得ることができる場合は極めて少ないように思います。したがって、「正しい認識」って何だろう?と思ってしまいます。

 

ここから推測すると、二人の人が同じ夕日を同じ場所から見た時、そのときに感じている「赤色」はそれぞれの人で異なっている可能性があると思います。

思考法にいたればもっと違う可能性があるのではないでしょうか。(1)ヒトは言語を使って思考する、(2)思考は過去の経験に基づく「思い込み」の影響を受ける、といったことから、全く同じ情報に基いて考えても、ヒトそれぞれ違う考えに至るかもしれません。

 

こういった呪縛から逃れるのは私の経験上容易いことではないように思います。それなのに、そのことを思っている瞬間は、なぜ、「自分が正しい」と思ってしまうのか、自分でもさっぱりわかりません。せめて思考のツールである「言語」は2系統くらいもっっていたいと、ぼくは思っています。

 

このような前提で、まず、"THE NATURE OF PERSONAL REALITY"をレビューし、その合間に、なぜ、Audibleを使った英語学習をお薦めするのか書いていきたいと思います。

 

なかなか本題に到達しませんが、ご容赦を。

「私」という存在が信じている「現実」

多摩地方もめっきり寒くなってきましたね。

吉祥寺も昔あった「きっちょむ」とか「一二三」、「ガネーシャ」がなくなり、どこにでもある店ばかり。テレビ番組にもあるように「吉祥寺だけが住みたい街」ではなくなったのかも。

さて、少々自己紹介を。ぼくは、半分眠りかけているときに、突拍子もないアイディアが浮かんでくることがあります。

はじめは、それを纏めて皆さんに紹介したら面白いと思っていたのですが、ただの「しろうと」の妄想を書いても「キモイ」と思われるのがせいぜいだろうと思っていました。ところが、前に書いた"THE NATURE OF PERSONAL REALITY" by Jane Roberts"を読んでみたところ、自分の体験と似ているし、この本のほうがいくらか体系立っているので、この作品を紹介しつつ、ぼくのコメントを入れたほうが皆さんに分かりやすいと考えました。

 

ただ、この作品の日本語訳を読んだところでは、ぼくが英文を読んだ印象とずいぶん違っていたので、英語版を元に話していきたいと思います。日本語訳についてはざっと目を通した程度なので、日本語版との対比はしていません。

 

私が、Jane Robertsさんの本を読んだところ、"Seth"という"Jane Roberts"とは別の存在が"Jane Roberts"の口を借りて話すようで、まるで、恐山のイタコみたいです。「恐山のイタコ」については「眉唾もの」という意見もあるようですが、"THE NATURE OF PERSONAL REALITY"については、たとえ、この「イタコ」がまがいものであったとしても、書いてある内容が「私に浮かんでくる妄想」とほぼ一致しているのが面白い点です。(私は自分の妄想が浮かんでくる以前に一度も"THE NATURE OF PERSONAL REALITY"を読んだことがありません)

 

まず、原題の"THE NATURE OF PERSONAL REALITY"に対する邦題は、「個人的現実の本質」ですが、私が読んだところでは「自分が『現実だ』と感じているものは自分が作ったものなんだ」という意味のように思います。

 

つまり、現代の生理学的知識からすると、あらゆる感覚、つまり、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、および体の内部感覚は、受容器という細胞によって電気信号に変換された情報を脳で再構成したものであり、私たちは通常は直接、外の存在を直接認識できない存在のようです。情報変換の際にはには必ず「解釈」が入ります。したがって、自分の偏見や都合で現実を改変して受容している可能性がある。それが"personal reality"というものかもしれない、とこの本を読んで感じました。

今日のところはここまで。

 

「翻訳」は「原作」とは別の作品だ

英語はAudibleでの学習が一番よかった(2)
最近、日本アニメの英語吹き替え版を良く観ます。(ダロンロードはご注意!)

特に優れていると思ったのは、「4月は君の嘘」と「言の葉の庭」の英語吹き替え版です。

「4月は君の嘘」のほうは、セリフ自体がすでに翻訳ではなく、状況に併せて、「米国で同じ状況におかれたらどう言うか」というセリフになっています。

 

一例を上げると、最終回で

日本語セリフが

「有馬公生君、君が好きです。好きです。好きです。」

は、英語吹き替えでは

"Here is a Truth, Kose. I love you, I love you, I love you."

とされています。

 

新海誠監督の「言の葉の庭」の英語版でも、日本の和歌を英語版では、意味が近い韻文に変えています。

加えて、村上春樹作品の英語版でも、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では、原文にはないTom Swift elevatorというものが登場するが、これでむしろ米国の読者はよく理解できるのでしょう。

 

Localizingというのは、現地の人に理解してもらえ、楽しんでもらえることが目的なので、こういう置き換えは私はとても歡迎します。

 

(私がLocalizingを受注する場合は文章の順序まで変えて、時系列に並べ変えることもあります。日本人に不要な箇所はばっさり切ります。)

 

最近、ぼくが気になっているのは、"THE NATURE OF PERSONAL REALITY" by Jane Robertsの日本語版「個人的現実の本質」という本(訳者不明)、出版社: (ナチュラルスピリット)の日本語文章です。

 

早くAudibleの話に入りたいのですが、まず最初に、この作品の素晴らしさを伝えるための説明をしたいと考えます。

著作権の関係上、特に日本語版「個人的現実の本質」の文章には触れません。

ではまた。

 

「最短コース」で英語を身につける方法

サラリーパーソンの皆さん、それに高校生の皆さんに提案です。

私はすでに60歳を超えたおじさんです。顎の骨を折ってから上手に話せません。

それで、今は英語関係の仕事は「文字」に関係のあることしかできません。

 

そこで、この機会に「最短コース」で英語を身につける方法を提案したいと思います。

この事故を機会に英語媒体を元に日本語にしたもの、あるいは、日本語媒体を英語にしたものをたくさん読みましした。

 

違う言語で書かれた、あるいは話された媒体を、他の言語で表現するのは難しいことです。

 

観光旅行くらいなら自動通訳機が使えそうですが、今のところそれ以上は、コンピュタのお世話になっても、英語を日本語に、あるいは日本語にするのは難しい仕事です。特にコンピュータに日本語の「主語」を判定させるのは困難です。

 

例をあげるなら

「オレ、ネコ ・・・」という歌を英語にするのは、『アシモフ」の "I, robbot"の邦題をつけるより難しい気がします。同じ外国作品の日本語版が数回出版されることがありますよね。

 

例えば、ほくは、R.Heinline の "The door into Summer"については、福島正実さんの訳(

https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%8F%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%ABSF-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB-%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/415011742X

のほうが新訳より好きです。

 

みなさまはいかがですか?

 

では今日はこれくらいで。