「私」という存在が信じている「現実」

多摩地方もめっきり寒くなってきましたね。

吉祥寺も昔あった「きっちょむ」とか「一二三」、「ガネーシャ」がなくなり、どこにでもある店ばかり。テレビ番組にもあるように「吉祥寺だけが住みたい街」ではなくなったのかも。

さて、少々自己紹介を。ぼくは、半分眠りかけているときに、突拍子もないアイディアが浮かんでくることがあります。

はじめは、それを纏めて皆さんに紹介したら面白いと思っていたのですが、ただの「しろうと」の妄想を書いても「キモイ」と思われるのがせいぜいだろうと思っていました。ところが、前に書いた"THE NATURE OF PERSONAL REALITY" by Jane Roberts"を読んでみたところ、自分の体験と似ているし、この本のほうがいくらか体系立っているので、この作品を紹介しつつ、ぼくのコメントを入れたほうが皆さんに分かりやすいと考えました。

 

ただ、この作品の日本語訳を読んだところでは、ぼくが英文を読んだ印象とずいぶん違っていたので、英語版を元に話していきたいと思います。日本語訳についてはざっと目を通した程度なので、日本語版との対比はしていません。

 

私が、Jane Robertsさんの本を読んだところ、"Seth"という"Jane Roberts"とは別の存在が"Jane Roberts"の口を借りて話すようで、まるで、恐山のイタコみたいです。「恐山のイタコ」については「眉唾もの」という意見もあるようですが、"THE NATURE OF PERSONAL REALITY"については、たとえ、この「イタコ」がまがいものであったとしても、書いてある内容が「私に浮かんでくる妄想」とほぼ一致しているのが面白い点です。(私は自分の妄想が浮かんでくる以前に一度も"THE NATURE OF PERSONAL REALITY"を読んだことがありません)

 

まず、原題の"THE NATURE OF PERSONAL REALITY"に対する邦題は、「個人的現実の本質」ですが、私が読んだところでは「自分が『現実だ』と感じているものは自分が作ったものなんだ」という意味のように思います。

 

つまり、現代の生理学的知識からすると、あらゆる感覚、つまり、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、および体の内部感覚は、受容器という細胞によって電気信号に変換された情報を脳で再構成したものであり、私たちは通常は直接、外の存在を直接認識できない存在のようです。情報変換の際にはには必ず「解釈」が入ります。したがって、自分の偏見や都合で現実を改変して受容している可能性がある。それが"personal reality"というものかもしれない、とこの本を読んで感じました。

今日のところはここまで。